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問責決議

  1. 2008/06/13(金) 03:35:39|
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6月12日木曜日の朝日新聞の一面に「首相問責参院可決」の見出しの下に大きく「宝刀効かず形骸化」の文字があった。
朝日は今社会が壊れつつあることを認識していない。
「形骸化〜」ではなく、寧ろ法的に力はないかもしれないがそれ以上に力のあることを掲げるべきであった。
効果の有無を論じる陰に金や物に既に毒されてしまった筆者の考えが見えてくる。
参院の総意に衆院がまた総意で対抗した。考えるまでもなく民意の新しいのはどっちなのだ。
与党が正しいというのであれば選挙に」打って出るしかないだろう。ところが新聞その他のしたり顔の論評は、自民公明は今選挙すれば惨敗を知っているから出来ないのだという。なぜ堂々と一言述べる前に「卑怯な自民公明は〜」と言葉を被せないのか。
どうやら新聞は自らの在り方、言葉こそ何物にも勝るという本来の姿勢を忘れ、崩れつつある社会と同じ歩調を歩み始めている。
あの平気でごまかしを、大きな声を臆面もなく張り上げて、汚れを思わせる言葉でまくし立てた小泉元総理を言葉の使い方や話し方に既にまともな政治家ではないことを繰り返し大きな声で非難したところはなかったのではないか。
国民に意図する政治を本当に訴えるのに何の難しさがあるだろうか。至って簡単である。
いくつもの条件を並べあげ、違いの是非を丁寧に説明し、だから今はこの方法を選びたいと言えばいいのである。それが出来ないときそこに誤魔化しが始まる。
昔学生時代担当の教授が都合で暫く休んだとき、代わりに地元の大学や中央の大学から講師が見えた。
力ない地元の講師がすぐにいきり立ったような話し方をするのに、中央からの講師の深みのある、学生へのゆとりある対応に、斯くまでも違うのかと驚かされながら、中央からの教授に深い敬意を覚えたことを思い出した。
そう、地元のひどい教授に今あげた小泉政治が重なったのである。

国語力の衰え その2

  1. 2008/06/06(金) 05:27:30|
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宮城県のこの春実施された高校入試の国語の問題を見てみた。
第1問と第2問に長文による問題がある。第3問に漢字の読み書きと筆順と言葉の問題がある。第4問に古文。第5問に160字〜200字の作文。第3問の漢字の読み書き8つの中に小学校での漢字がほぼ半分である。
因みに平成5〜7年度分を見てみた。
読み方の中には小学3年での「転げまわる」小4年での「朗らか」が、漢字に改める方には小3の「体を後ろにソらす」小4での「アタり一面」小2の「シタしい友人」などが見える。
小学校の教師は一度でも教え子の受けるこうした試験問題など見たことがあるのだろうか。いや殆どの先生の頭にこんなことは浮かんでないはずだ。
中学校関係の校長さんたちの「小学校は読み書き算盤をしっかりやってもらいたい」という言葉を何度も聞いたことがある。
一つの中学校に周辺の複数の小学校から入学してくる。その学校差を見せられたことがあった。ひどい違いが分かった。
私が気にするのは、だからと言ってその複数校の校長を呼んでその事実を説明するわけではない。
勉強しなくても中学校には入れる。
だが小学校でまあまあの成績の子でも中学校へ入ってからの各教科への対応は難しい。まして国語は小6からずんと飛んだ感じである。
だが一回り大きくなった体で上級生とその体をぶつけるような放課後の部活動は楽しい。
だが3か月もすると中間テストがくる。大きな辛い思いを下地にした生活の中にそれなりに部活動に燃えていると、学習は積み重ねであるといった厳しさを思い知らされ最後がくる。

病気への対応に診断は欠かせない。
その診断が適当だと診られた患者はその後自分でひどい責任を取らされることになる。
ここでの話もこれと似た話ではないのか。
それも一人の人生を左右する大変な問題だと考えるが。
今日も中身は小学5年生でない5年生みたいな子どもが学校へ行くのだろう。5〜6年生程度の学力の中学3年生みたいな子も学校へ行くのだろう。
だが心の中での問題はその中学3年生の中でものすごく膨らんでいるのだ。

  1. 2008/06/03(火) 09:15:14|
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 国語力の衰え その1
中国の大地震のために出かけた日本の医療チームが帰ってきた。ご苦労に心から労いの言葉を申し上げたい。
だがその一方で中国においての話の運び方や挨拶のお粗末さはとても頂けない。
引き換え中国の人たちの挨拶等の何と立派なことだろうか。
「すごい良かった」とか「すごい有難い」とか日本語の乱れがひどくなってきてはいたが、外国でのお粗末な話し方だけは願い下げにしたいものである。
乱れた日本語が広がればこれまでの正しい日本語で書かれたものはどう読み取られていくのだろうか。
このような問題に一番近いところにいるのは義務教育の教職員だろう。最も根本的な対応が可能な人たちである。
おかしな言葉が聞こえてきたら何をおいてもそのことを子どもたちに教え、正しい日本語の使い方を指導すればいいだけの話である。
しかしながら全ての学習の基本に国語があることをあまりというか殆どと云ってもいいほど考えていないように思える。
昔宮城県のA高校のB校長が地元の河北新報に「校長たる者卒業式等の挨拶が懐からの紙を見ないで話せないのか」といった内容の投稿があった。だからといって変わっただろうか。いやそんな気配はこれまで全く見えなかった。
テレビでも紙を見なければ物を言えない人間ばかりのように見える。中には読み上げているその用紙を後ろからのカメラで写されてさえいる有様である。
人の集まりで進行係が名前をよく読み間違える。間違いは誰にでもある。だが問題は名前に使われている文字の読み方の中での間違いなら分かる。どう考えても外れ過ぎている読み方で紹介する人間が増えてきた感じなのである。
小学校の卒業式の挨拶の中身が小学6年の国語の学習程度を遥かに下回るレベルの挨拶を聞かされて驚いたことがあった。
6年間しっかり勉強した子どもはこの校長の卒業式という大事な校長からの最後の挨拶をどう聞いたのだろうか。

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